4月7日、まだ桜の美しい京都へ、東京芸大で美術史を教えておられる、須賀みほ先生の案内で、等伯の襖絵を見るツアーに参加しました。
まず訪れたのは、しだれ桜の美しい智積院。等伯の楓図と等伯の息子久蔵の桜図を見る。
楓の幹の力強い、等伯の楓図もさることながら、父の襖絵に向い合せの、久蔵の八重桜は、華やかで軽やかで気品のあるすばらしい作品で、26歳で亡くなってしまったのは惜しまれる。そして父等伯の悲しみはいかばかりかと思った。
ところで、これらの襖絵は冷暖房の効いた展示室に置かれ、襖絵の前には柵がめぐらされている。なので、西洋の絵画を見るように「絵」そのものに鑑賞の目は注がれる。いったいこの襖絵はどんな場所に置かれていたのか。
その答えに応えるべく、須賀先生は、大書院に案内してくださった。しかしそこに飾られた、模写というにはあまりにきらびやかな複製は、まったく似てもいない非なるものだった。
智積院の庭 |
それにしても、ひどい複製よりは写真のほうがましではないか。
本物の等伯の襖絵はこの収蔵庫に |
等伯がこの場で、何を思い、何を意図し、何を表現したかったのか。同じ場に立ち、同じ絵を目前にしてこそ感じられるものがある。
一方で、どんなに精巧でも、カメラを通しての画像である。
人が「見る」ということは、ただ対象物の画像を網膜に結ぶだけでなく、脳がこれまでの経験や感情を組み入れて「観る」ということだ。やはり本物とは違うはずである。
「保存」とは何なのか。古墳や洞窟の壁画が人工的な環境に移されて劣化した例はよく知られている。修復の作業により墨が消え、鶴の羽がなくなった等伯の絵があった。もちろん、ほったらかしでは、気候の変化などもあり、少しづつ劣化するのが自然だろう。
ならば、いっそ、自然が代謝するように、まったく新しい、現代を映す襖絵を入れるというのはどうだろうか。
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